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【与謝野晶子】ー晶子さんの素顔―

与謝野晶子エピソードー晶子さんの素顔―

 

 与謝野晶子は「情熱の歌人」「強い女性」「スーパーウーマン」などというイメージがあり、その強いイメージに惹かれ、感動、共感しますがそれはほんの一面に過ぎません。  

 晶子の素顔を知って、一人の女性、妻、母、そして人間として、出来るだけ「身近な存在」として親しみも持っていただきたいと思います。

 ここでは、親しみを込めて与謝野晶子を「晶子さん」と呼び、自身の随筆や子どもたちの回想文を参考にその素顔を紹介します。

 

  

「笑顔の晶子」(雑誌『ニコニコ』より

 

 

 

 


 

 晶子さんの楽しみ

 晶子さんは、書斎にこもって仕事をするだけでなく色々な日常の楽しみを持っていました。暇があれば「子供達の衣類の裁ち物」や夫と子どもとの団らん、先輩や友人たちとの話し合い、旅行や「下手な絵具いぢり」「台所の煮物」をしたい、本や雑誌は「睡眠時間を減じて」まで読みたいと述べています。特に晶子さんらしいところは、買い物も楽しみとし、買い物=「一つの創作」だと述べていることです。「どうせ廉い物を買つて来るのですが、その廉い物と限られた範囲でする選択に、自分の創造能力を試めす機会のあるのを喜びます」と、日常の買い物にまで喜びを感じていました。 

 晶子さんはお風呂が大好きで真夏の昼間にはよく水風呂に入ったそうです。また、煙草やお酒好きな面は意外に知られていません。愛煙家であった晶子さんは、昭和15年に脳溢血のため禁煙させられた時「命の二年や三年延ばすために禁煙することは、少しも意味がない」と言いながら我慢していたそうです。

 

 晶子さん好み 

 晶子さんは色白なので、ほとんど化粧らしいことはしなかったそうです。自身「お化粧は皮膚を美しくするにあると思ひます。それには常に健康でなければならない」と述べています。着物は紫色を好み、着方についてもこだわりを持っていました。流行にも敏感でしたが、冷静に判断し流されるようなことはありませんでした。また、着てみたい着物は?と聞かれ縦縞が好きと答え「横縞は決して嫌ひと云ふのではなく、一生に一度は横縞が似合ふやうに痩せてみたい」と自らの体型についても客観視していました。 

 

作品のイメージとのギャップ 

 娘が語る晶子さんの様子を紹介します。「母の真似をするならば、錦紗かお召しの着物を少し長目に着て、襟元は紫地に刺繍のある縮緬の半襟で、ひろくゆったりと開ける。首をちょっと右にかしげて、うつむき加減に左手に粗末な布製のハンドバッグをかかえ、右手でときどき襟元を後に抜くようにして、小股に歩けばよいと思う。あまり口をきくと母らしくない。ちょっと口をすぼめて気取って話す時もあった。大声は出さない。東京弁をゆったりと関西調で話した。『できる』と言うところは『でける』などと言う。」(四女与謝野宇智子著『むらさきぐさ』より)このように、作品のイメージとは違う素顔が垣間見られます。晶子さんの関西弁は生涯抜けることがなかったそうです。  

 「君死にたまふこと勿れ」や「山の動く日」など、作品から想像する晶子さんは、はきはき物を言う強い女性のイメージがあります。昭和期の活動の中心であった旅先での講演会でもそのイメージで話されると思いきや実はその逆でした。「私は、自分が講演とか演説とかに適しないことを知ってゐる。短所だらけである私の特に最も短所なのは、口舌で述べることである。それで以前から講演めいた事の依頼を受けても、すべてお断りして来たが、近年はどうしても断り切れない場合があるので、その度に草稿を書いて行つて、読ませて貰つて責を果すことにしてゐる。」と述べ、人前で話すのが苦手で、どうしてもしなければならないときは原稿を読んで話していたようです。また、「私の声が低いので、多数の会衆に何時も徹底しないのがお気の毒でならない。」と、天下の与謝野晶子とはかなりイメージが異なります。それは彼女の繊細な筆跡からも感じることができます。

  晶子さんは女性の権利に焦点をあてた評論を多く執筆しているため、積極的にそういった運動に参加して発言していたと思われがちですが、「私は以前から自ら婦人運動を起したり、その運動に加はつたりする事は避けてゐます。私の性格と境遇とに考へて、さう云ふ実際運動は私の柄に無いことを自覚してゐるからです。」「文筆で用の足ることなら、私は今後も新しい婦人運動の中の尊敬すべき実質を持つものに限り、出来るだけの味方をする積りです」とその立場を明確にしています。 

 

有名人であるが故に 

 晶子さんは最初の歌集『みだれ髪』の頃から話題の人となり、世間から注目を浴び続けました。芸術家の多くは没後に評価されることが多いですが、晶子さんは生前から有名人となり「時の人」として、新聞紙上での婦人相談に載ったり取材を受けたりすることが多くありました。一見華やかに見えますが、実際は、晶子さんの想いと裏腹に苦労の連続でした。例えば、見知らぬ人から歌の添削や揮毫依頼の手紙が数々送られ、返事が遅れるとその催促の手紙が絶えず送られてきたり、見ず知らずの人の詩集の序文を依頼されたりするなど、有名人であるが故の苦労がありました。 

 

家族との楽しいひと時 

 明治末期、夫を追って渡欧した晶子さんは、夫との再会を果たすと今度は子どもが心配になり先に帰国してしまいます。また、出産のための入院中に、孤独や不安・悲しさのあまり病院を抜け出し自宅に戻って家族と夕食を共にしてしまうこともありました。晶子さんにとって家族はかけがえのない存在であり、家族と過ごす時間が大切であったことがわかります。  

 晶子さんは料理も得意で、年中行事などで手作りのお菓子を子どもたちに作りました。料理の味付けは関西風で、はもの湯引き・うなぎの白焼き・ごま豆腐・ゆり根・そら豆・すっぽん料理・蒸し寿司などが好物でした。元々晶子さんのお父さんは美食家で新鮮な魚が手に入るので堺に引越したくらいです。毎日美味しいものを取り寄せたり作らせたりして、食卓には10品以上の料理が並ぶのは珍しいことではありませんでした。  

 晶子さんと夫寛との関係については未だに誤解されています。与謝野家の経済を支えていたのは晶子さんでしたが、晶子さんにとって寛の存在は大変大きいものでした。作品を発表する際には寛に批評してもらい、入院中には寛に鉛筆で書き取ってもらい出版社へ原稿を送ってもらいました。また、寛は子どもをお風呂に入れたり遊んだりと、子育てについても晶子さん任せではありませんでした。晶子さんは「良人とゐて経済的方面では私が主になつて働かねばならなかつたが、それは大した苦でもなかつた。良人のしてゐる学問上の仕事は金に換算されないだけだと私は思つて、良人を尊敬して、不平などを持つたことはない」と述べ、生涯寛を尊敬し愛し続けました。  

 以上、晶子さんのあまり知られていない素顔を紹介しました。晶子さんは、現代に生きる私たちと同じ一面を持って生活しながらも生み出す作品は多くのことを示唆してくれます。そして、才能豊かでありながらそれに満足することなく常に謙虚で前向きな晶子さんの生き方は、これからも私たちに希望と勇気を与え続けてくれることでしょう。