■ 知る・学ぶ

与謝野晶子

晶子の素顔

 

家族との楽しいひと時

 明治末期、夫を追って渡欧した晶子さんは、夫との再会を果たすと今度は子どもが心配になり先に帰国してしまいます。また、出産のための入院中に、孤独や不安・悲しさのあまり病院を抜け出し自宅に戻って家族と夕食を共にしてしまうこともありました。
晶子さんにとって家族はかけがえのない存在であり、家族と過ごす時間が大切であったことがわかります。

 晶子さんは料理も得意で、年中行事などで手作りのお菓子を子どもたちに作りました。料理の味付けは関西風で、はもの湯引き・うなぎの白焼き・ごま豆腐・ゆり根・そら豆・すっぽん料理・蒸し寿司などが好物でした。元々晶子さんのお父さんは美食家で新鮮な魚が手に入るので堺に引越したくらいです。毎日美味しいものを取り寄せたり作らせたりして、食卓には10品以上の料理が並ぶのは珍しいことではありませんでした。

 晶子さんと夫寛との関係については未だに誤解されています。与謝野家の経済を支えていたのは晶子さんでしたが、晶子さんにとって寛の存在は大変大きいものでした。作品を発表する際には寛に批評してもらい、入院中には寛に鉛筆で書き取ってもらい出版社へ原稿を送ってもらいました。また、寛は子どもをお風呂に入れたり遊んだりと、子育てについても晶子さん任せではありませんでした。晶子さんは「良人とゐて経済的方面では私が主になつて働かねばならなかつたが、それは大した苦でもなかつた。良人のしてゐる学問上の仕事は金に換算されないだけだと私は思つて、良人を尊敬して、不平などを持つたことはない」と述べ、生涯寛を尊敬し愛し続けました。

 以上、晶子さんのあまり知られていない素顔を紹介しました。
晶子さんは、現代に生きる私たちと同じ一面を持って生活しながらも生み出す作品は多くのことを示唆してくれます。そして、才能豊かでありながらそれに満足することなく常に謙虚で前向きな晶子さんの生き方は、これからも私たちに希望と勇気を与え続けてくれることでしょう。