■ 知る・学ぶ

与謝野晶子

晶子の素顔

 

作品のイメージとのギャップ

 娘が語る晶子さんの様子を紹介します。
「母の真似をするならば、錦紗かお召しの着物を少し長目に着て、襟元は紫地に刺繍のある縮緬の半襟で、ひろくゆったりと開ける。首をちょっと右にかしげて、うつむき加減に左手に粗末な布製のハンドバッグをかかえ、右手でときどき襟元を後に抜くようにして、小股に歩けばよいと思う。あまり口をきくと母らしくない。ちょっと口をすぼめて気取って話す時もあった。大声は出さない。東京弁をゆったりと関西調で話した。『できる』と言うところは『でける』などと言う。」(四女与謝野宇智子著『むらさきぐさ』より)このように、作品のイメージとは違う素顔が垣間見られます。晶子さんの関西弁は生涯抜けることがなかったそうです。

 「君死にたまふこと勿れ」や「山の動く日」など、作品から想像する晶子さんは、はきはき物を言う強い女性のイメージがあります。昭和期の活動の中心であった旅先での講演会でもそのイメージで話されると思いきや実はその逆でした。
「私は、自分が講演とか演説とかに適しないことを知ってゐる。短所だらけである私の特に最も短所なのは、口舌で述べることである。それで以前から講演めいた事の依頼を受けても、すべてお断りして来たが、近年はどうしても断り切れない場合があるので、その度に草稿を書いて行つて、読ませて貰つて責を果すことにしてゐる。」と述べ、人前で話すのが苦手で、どうしてもしなければならないときは原稿を読んで話していたようです。また、「私の声が低いので、多数の会衆に何時も徹底しないのがお気の毒でならない。」と、天下の与謝野晶子とはかなりイメージが異なります。それは彼女の繊細な筆跡からも感じることができます。

 晶子さんは女性の権利に焦点をあてた評論を多く執筆しているため、積極的にそういった運動に参加して発言していたと思われがちですが、「私は以前から自ら婦人運動を起したり、その運動に加はつたりする事は避けてゐます。私の性格と境遇とに考へて、さう云ふ実際運動は私の柄に無いことを自覚してゐるからです。」「文筆で用の足ることなら、私は今後も新しい婦人運動の中の尊敬すべき実質を持つものに限り、出来るだけの味方をする積りです」とその立場を明確にしています。