■ 知る・学ぶ

千利休

人物紹介

千利休について

千家茶道の祖であり、わび茶の大成者として知られる千利休(1522-1591)は堺の商家に生まれ、その生涯の大半を堺で過ごしました。名を与四郎、法名を宗易、斎号を抛筌斎と称し、正親町天皇から利休居士号を賜ります。堺の豪商・武野紹鷗に茶の湯を習い、天下人・織田信長や豊臣秀吉の茶頭として仕えました。とりわけ、秀吉には茶頭の筆頭として仕え、禁中茶会や北野大茶湯の開催に尽力し、世に「天下一の茶の湯者」と称されました。

 

さかいの茶の湯と茶人

堺は古くから港町として発展しましたが、1467年に京都で応仁文明の乱がおこり、日明貿易の拠点が兵庫津から堺に移ったことを受け、貿易港として繁栄しました。
そのころ堺では細川氏の支配下で商人たちが自由に商売をしており、また会合衆(かいごうしゅう)と呼ばれる有力商人たちによって合議制による都市運営が行われ、堺は黄金期を迎えました。商人たちは茶の湯を好み、都市文化を形作っていきました。
茶人としても秀でていた堺の商人は、天下人・織田信長、豊臣秀吉の茶頭(茶の湯の宗匠)として重用されました。津田宗及(つだそうぎゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)、千利休の三人は、「天下三宗匠」と称されました。

茶の湯(わび茶)は武野紹鷗が中興し、千利休が大成したと言われています。その両者を育んだ堺は、新たな茶の湯を盛んに試みた都市でした。ポルトガル人の宣教師ジョアン・ロドリゲスは「数寄(すき)と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は、有名で裕福な堺の都市に始まった。」(日本教会史)と記録しています。